焦らずに自分のペースで生きる知恵

入生には“緩の時間” と“急の時間”があっていい

人間に、生まれながらにして平等に与えられているものは何でしょうか?それは「時間」です。貧富の差や、頭の良し悪し、健康か不健康か、外観の美醜 。神様はなんて不公平なんだろう!

でも、時間だけは誰にでも平等に与えられています。だからこそ、時間はかけがえのない貴重なものです。いま、これを読んでいる瞬間も、すぐに過去になって再びめぐってきません。わたしたちの一生の持ち時間は限られているのです。

この宝物のような「時間」には、実は2つの種類があります。時計の針が時を刻んで表す物理的な〝“ニュートン時間”と、心の中の時間の濃淡を表す“ペルグソン時間”です。

何かに熱中しているときは、時間の密度が濃いように感じてアッというまに過ぎ、イヤイヤやっているときは時間のたつのが遅く感じることがあるでしょう。それが“ペルグソン時間”です。

この2つの時間とうまくつきあい、使いこなすコツを知っているのといないのとでは、人生の質に大きな差が生まれます。限られた月日を自分なりに納得して過ごせたら、一生は豊かですばらしいものになるに違いありません。

だからこそ、声を大きくして言いたいのは「他人の時間を奪ってはダメ」ということ。自分の時間と同じように、他人の時間も大切にしましょう。

待ち合わせの時間に遅れたり、約束をすっぽかしたり…そんな人は“時間泥棒” です。そんなことがたび重なると、社会的な信用も失いかねません。

ビジネスの世界では、これは特に大切なルールです。相手もその予定で行動しているのですから、あまり早過ぎるのも、ギリギリで駆けつけるのも考えもの。約束の時間よりも数分前からジャスト・タイムというのが常識的なラインです。

また、人に会っているときに、時間を気にして腕時計をチラチラと見てはいませんか?たとえ気になっても、相手に気づかれないようにさりげなくチェックするのがエチケット。時計を盗み見るのは「早くその場から離れたい」というボディ・ランゲージです。

相手に不快感を与えて、まとまりかけた商談もこわれてしまいかねません。もっとも、鈍感な相手には、これを逆手にとって、約束の時間に終わりがきたことをさりげなく知らせることもできますね。

そして矛 盾するように聞こえますが、時間は“緩急自在”なもの。ケース・バイ・ケースでつきあうようにしましょう。

ふだんは、とくにビジネスの世界では、凡帳面にルールを守ることが大切だけれど、時にはゆったりと過ごすことも必要です。

時間にしばられすぎて、胃に穴を開けてしまってはしかたがありません。これは、インドでの体験です。

わたしは今までインドを数回訪れているのですが、そのたびに考えさせられる体験をします。ヒマラヤの麓に近いガンジス川上流のリシケシは好きな場所のひとつで、ヨーガの聖地です。

川の両岸には、たくさんのヨーガ・アシュラム(修行場) が並んでいます。ぬけるような青い空と山に囲まれた美しい地。川の流れと鳥のさえずり以外は何の物音もなく、じつと座っているとわたしも自然にとけこんで、一瞬、時間が止まったかのような錯覚を覚えます。

そして、時間に追われる東京での毎日が嘘のように思えてきて、心身ともにリフレッシュ。生まれ変わったかのようにまっさらな気持ちになるのです。

ところが一歩街に出ると、雑踏と騒音のものすごさに驚かされます。道路は人と自動車、人力車、自転車、そして小さな露店もいっばいです。でも、人の売り声と竪日とがかもしだす雰囲気の中に、独特の強烈なエネルギーを感じます。

日本人なら思わず駆け出してしまいそうなせわしなさの中で、人の目などまったく気にしないで、のんびりと自分のペースでしたたかに生きているように見えるインドの人たち。その姿に、わたしはある種の感動を覚えました。どんなに貧しい人でも、自分の時間だけは持って、それに従って生きているのです。だから、

日本の基準からすると、インドの時間はいいかげんに見えることもあります。交通機関は時間どおりに動かないのがあたりまえ。イライラしてもしかたありません。そんなわけで、いつまで続くかわからない空港での待ち時間に、わたしは一緒にいったヨーガの生徒さんにフラダンスを教えていました。

フッと気づくと、周りにインドの人たちがたくさん集まっているではありませんか。とてもビックリしました。お調子もののわたしは、とっさに大道芸人のように帽子を出して回ったら、そこにいた人たちが皆大爆笑。長く退屈な時間が、

すっかり楽しい時間となり、わたしにとって一生忘れられない思い出になったのです。どうせならば時間を味方にして、たくさんの時間の過ごし方のバリエーションを持ち、死ぬときに「ああ、よい人生だった」と思いたいものですね。