思考には抜け道がある その見つけ方

当たり前のことから探る

ハメをはずさず、常識の許す範囲で行動することを常に心がけていませんか? 「みんなと同じ」ことを美徳とする日本社会では、特にこの傾向は強いように思います。

誰でも、多かれ少なかれ自分の感情をセーブしたり、人の輪からはみ出さないように気を遣ったりします。また、本音だけでは生きていけないのが、この社会です。

でも、人の心はとても微妙なもので、ひと筆書きのように決まったルートを通ればうまく絵が描けるというものではありません。

「○○をしてはダメ」「○○ すべきだ」という気持ちが強すぎると、心の一部が抑圧されるため、どこかにエネルギーのはけ口を求めるもの。思いもよらないときに感情が暴走して自分ではセーブできなくなったり、からだになんらかの症状となって表れることが多くなります。

ちょっと極端ですが、そうなる前に「どんどんハメをはずしましょう」「常識なんて気にしなくてもいいんです」と言いたいものです。

人に迷惑をかけたり法律に触れたりしないかぎり、たいていのことはOK だ、くらいに思ってもよいのです。

たとえば、常識だとされていること、よいことだと思い込んでいること、わかりきったルールだとされていることなどから、いったん離れて、もう一度見つめ直してみましょう。それは本当にあたりまえなのか、それだけしか道はないのか、全く逆でもかまわないのではないかなど、言葉は悪いのですが一度、疑ってみるのです。

例えば、この「失敗」 は、決定的なデメリットでしかないんだろうか。どこかにメリットを生み出すもとは隠れていないだろうか… 。「尻軽」とは落ち着きがない人へのけなし言葉だけれど、身軽で機敏、フットワークがよいことだと考えたら、ほめ言葉にもなるのではないかしら。

「恥をかく」のは文字通り恥ずかしいことには違いないけれど、失敗だらけで小さな恥をかきどおしのあの人が、みんなに好かれ、チャーミングに見えるのはなぜ?「完全無欠」の上司であることは、もしかしたら部下には息苦しいだけの存在かも。… こんな風に、これまでとは少しだけ視点をずらしてものを見るクセをつけておくと、いざというとき、抜け出せそうもない袋小路に迷い込まずにすみます。

それどころか、新たな活路を見つけ出して、ユニークな発想ができ、発想にゆとりのある「人生の“抜け道” 探しの名人」になれるかもしれません。

こんな日本の昔話を聞いたことがあります。「あるところに2人の息子を持つ母親が住んでいた。息子の1人は傘屋、もう1人は草履屋。2人とも裕福ではないけれど、母親を大切にする孝行息子だった。

ところが、この母親は、雨が降ると「あぁ、今日は草履が売れない」、晴れると「あぁ、今日は傘が売れない」と嘆いて暮らしていたそうな」

でも、考え方を180度転換して、雨が降ったら「今日は傘が売れそうだ」、晴れたら「今日は草履がよく売れるにちがいない」と思えれば、この母親はいつも幸せに暮らせていたとは思いませんか?

そして、一流会社の部長さんの例。これまで30年以上、熱を出しても会社を休まなかった、絵に描いたような会社人間です。

「人に弱みは見せない。プライドを捨てるくらいなら死んだほうがましだ。仕事にはほとんどミスがなく、部下には「“人間コンピュータ”と呼ばれている」と言い、「俺がいなければ仕事が進まない」と自負していました。

ところが、3年前から耳なりに悩まされて夜も眠れなくなり、とうとう体力が限界に達して、やむをえず1ヶ月の休養をとることになったのです。

最初は仕事が気になってしかたがなく、ゆっくり静養するどころではありません。ところが、いつも頼りないと思っていた部下が「こんなときくらい、まかせてくださいよ。部長ほどの働きはできなくても、決して穴はあけませんから」とイキイキとした表情で張り切っているではありませんか。

そのとき、「あぁ、俺の頑張りすぎが部下の成長をじゃましていたんだ」と気づいたのだそうです。

職場に復帰してからは、ときどき「人間コンピュータにもメンテナンスが必要でね」と休暇を取り、その間のことはすべて部下を信頼してまかせるようにしたそうです。「わたしが弱みを見せることが、彼らのやる気を引き出すんですね」と、これまでとは逆のスタンスをとれるようになり、肩の力が抜けて幸せそうでした。

さぁ、人の目なんか気にしないで、ときには思いっきりハメをはずしましょう!素直さはすばらしい美徳ですが、わがまま、あまのじゃくも時には美徳かもしれません。カウンセラーのアドバイスも「人生のスパイスとして役に立てばラッキー」くらいに受け止めておくのも、またひとつのものの見方です。